Saturday, January 21, 2006
言語切替えスイッチ

NZに押しボタンのスイッチがないのはなぜ?! 今日気づいたんですが、あたしがウチの猫に話しかけているときに使うのは英語だったり日本語だったりします。別に何語で話そうが猫にとっちゃどーでもいいことですが、それに気づいて以降、自分がどんな状況でどっちの言語で思考して何語を話すのかが気になって仕方ありません。
会話の相手が日本人なら日本語で思考して日本語で話す。日本人じゃなければ両方英語。ま、コレはあたりまえ。でも、読み書きでは状況によって言語を使い分けてる気がします。

今週、前の職場の同僚が大学進学を目指しているため、彼女の推薦文を英語で書いて大学に送る機会があったんですが、そのときは頭の中で「彼女がどんな人柄なのか」を日本語でまとめてから書き始めた記憶があるし、何かを依頼する際にビジネス・レターを書くときも、相手にNoと言われないように戦略を立てようとするので、文章の流れを考えるのが日本語になりがち。でも、気心の知れた取引先へのメールや、友達へのプライベートなメールなんかは英語で考えながらそのまま打つのが普通。

結論:
口語以外のスカした文体はあたしには似合わない

じゃ、読むのはどーでしょう。
これは微妙。速度と正確な理解度を同時に要求されるなら日本語が圧勝だけど、英語は単語ごとに区切って書かれているので視覚での認識が日本語より簡単。だから、使い慣れた単語が並んだ文章からザザザっと概要を読み取るだけなら英語の方が早いかも。時制の判断材料が文末に来る日本語に比べて、英語は文頭なのも速度に影響してるな。
ちなみに速読(小説の1ページをわずか数秒で読んだりするアレ)の基本は「頭の中で文章を読み上げないこと」だそうですが、あたしは速読なんてワザは持ってないので、日本語でも英語でも常に脳内読み上げをしています。

結論:
日本語でも英語でも利用規約くらい読むのが面倒なものはない

文芸作品を読む楽しさを問われたら、これは非常に難しい。以前は「アルファベット26文字から日本語に負けない程の表現力が生まれるわけがない」と信じてましたが、英語でもたまに香りや感触さえ得られてしまうほど素晴らしい描写にブチあたったりします。
文芸作品ってのはおそらく、作品内の風景や人物などがどれだけ作者が意図した通りに読み手の脳内で完成されるかがキモなんだと思うんですが、その点では両言語共に道具としての役割を充分に果たしているのかも。

結論:
エロ小説は英語でもエロい(たぶん)



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